04 4月 2013

Delirious light

天候が確実に後れをとっているものの(だって寒すぎですやん)、
桜の萌ゆる季節はいつの年も区切りにはいい季節だなと思う今日この頃。

先日、こんなことを聞かれました。
「みどりって何が楽しくて生きてるの?」 「撮る方ばかりで楽しい?」
たしかそのときは「人間観察」とか「話すきっかけになるしたのしいよ」とかなんとか言って、その場をやり切ったけど。


果たしてほんとだろうか。

わたしを良く知ってくれる人は、決まって「お前は分かりやすい」と言います。
全くのその通りで、私は常々取り繕うことが下手くそ。というか、ほぼ出来ていない。
友達を驚かそうと嘘をつこうにも笑っちゃうし、餡子を目の前に身から幸せがあふれ出ずにはいられない。
そしてどんなに伝えたいことがあっても、いつも自分の中に「燃えカス」が残る。
そこが自分の嫌いなところでもあり、脆弱なところ。

というのも、言いたいことをその場できちんと伝えきった試しがない。
大抵の場合は、言い終わった後で言い損ねたものに出会うし、
一方で言うべき要素が口からでたときも、やはり相手に「え?」って聞き返されたりする。
そして、それがいつもきまってやるせない。

ただ、そんな中での唯一の幸運は、その「燃えカス」をケアする方法に出会えたということなんだと思う。
その一つは文章。そしてもう一つが写真

文章は、うまい下手とかじゃなくって、もう書くこと自体に意味があると思ってる。
しかも言葉にできなかった感情を少しずつ説明していくとき、日本語がわたしにはとりわけ心地いい。
丸っこいひらがなも好きだ。人によって異なる直筆なんて、体温すら伝わってくるでしょ?

写真は自分が観た景色を色彩をいちばん生の状態で残すっていう役割を果たしてくれる。
このブログのタイトル「Through fresh eyes」も自分の目を通しているっていう点では起源は一致。
シャッターを押すたびに何かを失ってきているかもしれないけれど、少なくともその分わたしは人とのつながりを確保してる。

たぶん、そうやって外とのつながりを保ってきたんだ。
どちらも自分のためにやってきたことだけど、気付いたら外と自分をつなぐパイプみたいになってた。
ここから分かることはお分かりの通り、普通のひとが話すだけで済むようなことを私はここまでやらなきゃ追いつけないくらいの不器用だってことだ。

だけど「燃えカス」のケアを怠って、どうしても積んでたのがつい先日。
就活とMPがドロドロにリンクしてきて、どんどん深いところまで体半分ハマりかけてました。
でも、普段から「こうでなくちゃ」「この時はこうして」っといった風に雁字搦めになりがちな私にとっては割と日常茶飯事。正直「またか」と思ってやり過ごしていました。


そんなとき、「碧は大人になろうとしすぎ」ってピシャリと言われました。
無理して頑張らなきゃって思い過ぎてる、って。


なんていうか、拍子抜けでした。
とりわけ現在進行形で苦しむ姿を人にさらすのが極端に苦手なわたしにとっては。

でもよく考えたら当たり前のことなのかもなあ。だってそれがいまの立ち位置だろうから。
そこに立ってることを隠しても、それは向き合う人に対して初っ端から嘘を通してるみたいじゃないか。
いくら不可のない文章を書いたって、完璧な構図の写真を撮ったって、だれかが居なきゃたぶん無意味だ。誰もいない場所に向かって言葉を置いたって、きっと誰も拾わないのと一緒。

もちろん不安はあるけれど、不器用なままで人と接してもいいのかな、と。
「わたしこんなんだけど、ここにいます」って、右手を挙げてもいいのかな、と。

普段はかたくなに演じがちな自分も、たまには開けっ広げに素直に弱ることも大切みたい。
今はまだ開けっ広げることに慣れなくてスースーするけど、そのうち慣れるといいな。
あのときから探してた感覚をつかみかけて、最近はほんのすこしだけ心が緩んだ気がする。


人生において何が楽しくて生きてるのかについては、きっとカメラを通して人と通じ合える瞬間を積み重ねること。
去年の私は彼の前で「人が好き!」とか一丁前のこと言ってたけど、それだけじゃなかったように思います。写真のシャッターを押す瞬間にその人が置いてった何かにすごく惹かれるし、シャッター音と同時にそれに出会ったときの高揚感はやっぱり忘れられない。

撮るばっかりで楽しいのかにはついては、答えはYesでもありNoも答え
自分が撮る側にいるときはいくらでも向けているレンズ。
なのにいざ自分が向けられるって思うとそれが凶器に見えて仕方ない。
真っ暗闇で終わりが見えないのは、まるで最後まで観れなかったディズニーのファンタジア。
でもレンズに対する恐怖心はきっとこの先乗り越えていかなければいけない壁なような気がしています。
だって凶器を人に向け続けては通じ合うものも通じなくなってしまうもの。


Delirious light――街はぼんやりを続けていて、気張っていないと人にぶつかってしまいそう。でもみんながみんな気張って生きているのだと思ったら、少しだけ気が楽にみえるかもしれないよね。


むかしから、答えの出ないものが好き。
だけどそれは、「ああでもない」「こうでもない」って、ねちねち考えるのが好きだからだと思ってた。
でももしかしたら本当は、「わたしひとりじゃ答えが出せない」って気付きたかったのかもしれないなぁ、とふと感じました。
今回の文章はいつもに輪をかけてまとまっていないけど、でもそれでいいって思ってる。
だって、まだ途中のお話はいつだって中途半端にしか書けないもの。

天気よりも一足先に私の雨は止んでくれたから、明日は傘をささずに出かけられそうです。

0 件のコメント: